
大乗とは、サンスクリット語でマハーヤーナ、大きな乗り物の意味で、多くを乗せて悟りへと導く“乗り物”となる教えに乗ること、そして、自らも大きな”乗り物”となっていくことを指し、その「他に心を向けていくこと」は、大乗仏教の大切な考え方のひとつとなっています。他に向けた行動は、小さくとも、利他の精神を貫いていくことだと真乗は説きました。
釈尊がいよいよとお隠れにならんとする時、多くの者が集まり、最後の供養を捧げました。在家の仏教徒の純陀もそのひとりで、15人の仲間とともに、その場に駆けつけました。その時、釈尊は、他の弟子たちの供養は受けずに、純陀の供養をお受けくださったのです。このことは、『大般涅槃経』「純陀品(じゅんだぼん)」にあります。
高弟の集まるなかで、出家していない一仏教徒の純陀の供養を釈尊が受けられたこと、そして、この純陀が、釈尊入滅のときに、自らが馳せ参ずるだけでなく、仲間を誘い連れだって来た「自らだけではなく、他を導く行い」をしたことに、真乗は注目します。出家僧と在家信者の違いを越えて、教学的に真理を究めていこうとする心と同時に、他を思う行いの大切さを説いたのです。



























