真乗は、信仰心の篤い父母のもとで、好奇心旺盛な少年として育ちました。
若くして上京すると、真乗は苦学をしながら英語をよく学び、ラジオと写真、そして科学に興味を広げていきました。
やがて立川飛行機製作所に入社。技術部門にたずさわって7年が経つころのことです。
仲間の相談相手になるうちに、真乗夫妻の人柄と家伝の易学が評判を呼び、気がつけば、真乗の自宅には、多くの相談者が誘い合わせて集まるようになっていました。
悩める人々、病む人々のために祈りを向ける日々。
人の役に立ちたい――真乗の胸に、その思いは日増しに強くなっていきました。
やがて縁あって、運慶作と口伝される不動明王を迎えます。
不動明王と対座し、また、人々と対座する――。そのなかで、妻・友司とともに宗教家として立つ覚悟が固まります。
1936年2月8日のことでした。
1936年5月19日、京都の醍醐寺にて出家得度。
日々、戦争の色が濃くなり、わずかな人が集まることさえ、警察が目を光らしていた時代です。
けれども、真乗夫妻を訪ねる人々は増え続け、ついには家からあふれるほどに。そうして、お寺建築の声があがりました。
1938年、祈りに祈って生まれたお堂、真澄寺は、立川の少し寂しい場所に建立されました。
その地が今、真如苑の総本部となっています。
1940年には宗教団体法が実施され、厳しい宗教統制が敷かれていきました。宗教活動が思うようにできないならと、開祖・真乗は自身の修行に打ち込みます。
当時の醍醐寺座主、佐伯恵眼大僧正猊下が、自らその修行を指導し、
「修行者の態度は、常にかくあるべきもの、とってもってよく範とせよ」とご説示されたと、後に座主となる岡田宥秀大僧正猊下は当時を語っています。
多くの相談相手に答えるところから出発した開祖。
修行を極めたからこそ、出家で得られる心――境涯を実感していました。
ここで、新しい悩みが生まれます。
「ふつうの社会生活を営む在家の信者であっても、仏を求める心を持つ限りは、出家者と同じように仏道を歩むことができないか」
度重なる苦悲のさなか、ひもといた大般涅槃経に説かれる「仏性」。
そして、釈尊の入滅に、神仏とともに在家の人々が馳せ参じたとの一節。
この経典こそ、悩める人々、病む人々が、祈りと修行を重ね、
出家と同じ境涯をめざす基盤となると開祖は確信しました。
「私は私なりの信念から、仏法の衣をぬぎ、素直に仏法を行ずる決心を固めた」
髪を伸ばし、洋服をまとって、「真如苑」として一宗をおこし、歩み始めました。
そうして、人々の心に仏の性を刻む祈りをこめて、開祖が自ら謹刻したのが、真如苑の本尊・涅槃像でした。
出家していない者であっても、修行をすれば仏性を磨き出せる――この修行のあり方を広めた真乗の試みは、仏教の世界に導き出した革新的な方法でした。
妻・友司を伴い、全国各地へおもむき、一人ひとりに膝をつき合わせて教えを説く開祖。
1967年、「欧州宗教交流国際親善使節団」団長として、ヨーロッパ8カ国を歴訪した開祖は、ローマ法王パウロ6世と会見し、日本人として初めてバチカン放送に出演しました。
「仏教の精神はあくまでも"融和"であり、"融合"であります」と呼びかけた開祖。
どれほど実現が困難であろうと、国や人種、宗教の違いを越えて融和する世界を目指し、"真如"を説き続けました。
「我、人々と道つらぬかん」
出発にあたって、30才の開祖が残した言葉は、生涯をつらぬく一筋の道となって、今も真如苑に生きています。