真如開祖の想い

永遠をかけて 不動の心を拝受して 我、人々と道つらぬかん 伊藤真乗

"人の役に立ちたい"その一心で出発

昭和の初め、ひとりの航空エンジニアが、宗教の道に立ちあがりました。伊藤真乗、まもなく30才にならんとする青年です。宗教の道を選んだわずか数週間後、東京では二・二六事件が発生し、混沌とした時代のなかでの出発でした。

伊藤真乗

真乗は、信仰心の篤い父母のもとで、好奇心旺盛な少年として育ちました。若くして上京すると、真乗は苦学をしながら英語をよく学び、ラジオと写真、そして科学に興味を広げていきました。

やがて立川飛行機製作所に入社。技術部門にたずさわって7年が経つころのことです。

伊藤真乗

仲間の相談相手になるうちに、真乗夫妻の人柄と家伝の易学が評判を呼び、気がつけば、真乗の自宅には、多くの相談者が誘い合わせて集まるようになっていました。
悩める人々、病む人々のために祈りを向ける日々。

人の役に立ちたい――真乗の胸に、その思いは日増しに強くなっていきました。

やがて縁あって、運慶作と口伝される不動明王を迎えます。

不動明王と対座し、また、人々と対座する――。そのなかで、妻・友司とともに宗教家として立つ覚悟が固まります。
1936年2月8日のことでした。

修行にどこまでも徹する

戦前から戦後にかけて、世情の不安定な時代、真乗は一心に修行を重ねます。生活の困窮、二人の息子の他界、世間の無理解、そして愛弟子の裏切り。苦難の道が続くなか、ホンモノを極めていきます。

伊藤真乗

1936年5月19日、京都の醍醐寺にて出家得度。

日々、戦争の色が濃くなり、わずかな人が集まることさえ、警察が目を光らしていた時代です。

けれども、真乗夫妻を訪ねる人々は増え続け、ついには家からあふれるほどに。そうして、お寺建築の声があがりました。

1938年、祈りに祈って生まれたお堂、真澄寺は、立川の少し寂しい場所に建立されました。
その地が今、真如苑の総本部となっています。
1940年には宗教団体法が実施され、厳しい宗教統制が敷かれていきました。宗教活動が思うようにできないならと、開祖・真乗は自身の修行に打ち込みます。

伊藤真乗

当時の醍醐寺座主、佐伯恵眼大僧正猊下が、自らその修行を指導し、
「修行者の態度は、常にかくあるべきもの、とってもってよく範とせよ」とご説示されたと、後に座主となる岡田宥秀大僧正猊下は当時を語っています。

伊藤真乗

真如苑――どんな人にも開かれた教団を生む

誰のなかにもあるよき心「仏性」が説かれる涅槃経をひもとくうちに、人々のよき可能性を開花させる一助となっていきたいという開祖の願いは、強くなっていきます。それが、在家教団としての出発となりました。

伊藤真乗

多くの相談相手に答えるところから出発した開祖。
修行を極めたからこそ、出家で得られる心――境涯を実感していました。
ここで、新しい悩みが生まれます。
「ふつうの社会生活を営む在家の信者であっても、仏を求める心を持つ限りは、出家者と同じように仏道を歩むことができないか」

度重なる苦悲のさなか、ひもといた大般涅槃経に説かれる「仏性」。
そして、釈尊の入滅に、神仏とともに在家の人々が馳せ参じたとの一節。

この経典こそ、悩める人々、病む人々が、祈りと修行を重ね、
出家と同じ境涯をめざす基盤となると開祖は確信しました。

伊藤真乗

「私は私なりの信念から、仏法の衣をぬぎ、素直に仏法を行ずる決心を固めた」

髪を伸ばし、洋服をまとって、「真如苑」として一宗をおこし、歩み始めました。

そうして、人々の心に仏の性を刻む祈りをこめて、開祖が自ら謹刻したのが、真如苑の本尊・涅槃像でした。

出家していない者であっても、修行をすれば仏性を磨き出せる――この修行のあり方を広めた真乗の試みは、仏教の世界に導き出した革新的な方法でした。

融和――人々の安心立命のために

開祖は願いました。――宗教の背景も国境も文化も性別も越えて、多くの人とともに、お互いの持てるよき心を発揮することができないか。真如苑の「苑」は、くにがまえの「園」ではないのだから、囲いがない真如苑になろう――。

教えを説く開祖

妻・友司を伴い、全国各地へおもむき、一人ひとりに膝をつき合わせて教えを説く開祖。

欧州宗教交流国際親善使節団

1967年、「欧州宗教交流国際親善使節団」団長として、ヨーロッパ8カ国を歴訪した開祖は、ローマ法王パウロ6世と会見し、日本人として初めてバチカン放送に出演をしました。

「仏教の精神はあくまでも"融和"であり、"融合"であります」と呼びかけた開祖。

どれほど実現が困難であろうと、国や人種、宗教の違いを越えて融和する世界を目指し、"真如"を説き続けました。

伊藤真乗

「我、人々と道つらぬかん」
出発にあたって、30才の開祖が残した言葉は、生涯をつらぬく一筋の道となって、今も真如苑に生きています。

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